赤いジャージ第5話目です。
 この話の結末は今まで話していた2つの選択肢のどちらでもありません。第3のラストをある日の夜、唐突に思いついたのです。それが一番しっくり来てなおかついい感じだったのでそれにしてしまいました。あともう暫くお付き合いください。
 それではどうぞ。
 
 
 第五話
 
 男は一瞬目を丸くして驚いたが、すぐにふんわりと微笑んだ。
「面白い子だね」
「ええと、ありがとうございます」
 未だに混乱の淵から帰還していない理子はついお礼を述べた。途端に男が笑みを深くし、ついには声を上げて笑い出した。
「笑うことないじゃないですか」
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけどね」
 前髪を掻き揚げて男は謝った。しかし、謝罪しながらも口角を上げて笑い続けているので、全く誠意がこもっていない。むしろからかっているようにさえ見える。
「もう、用がないなら話しかけないでください」
 理子はむっとして立ち上がろうと松葉杖を手にした。上手く反動をつけて立ち上がる。もう一度文句を言おうと向き合うと、男は未だに笑っていたが、その笑みの質はがらりと変わっていた。
「泣き止んだね」
「あ……」
 男の言葉にはっとして空いている右手で目元を撫でる。眼前に掌をかざしてみれば指に水滴はついていなかった。
 男が立ち上がり近づく。だがしかし先程の恐怖感は理子の心の中から消え去っていた。
「僕はフミト。この学校の生徒だった人間だよ」
「だった? 卒業生ですか」
 訊き返すと、フミトと名乗る男は切なげに顔を歪めたが、すぐにもとの笑顔に戻って続ける。
「卒業はしてないんだけど、まあいたことがあるってこと」
「ああ、ごめんなさい!」
 悲哀を含んだ表情に理子は素直に謝る。フミトにとってあまり触れて欲しくない話題だったのだろう。
 普通に高校生をしていると気にはならないが、高校にも退学があるし、数が少ないだろうが転校ということもまたありえる。退学したとは言いづらいだろうし、転校したのならばそのときに友達との別離などがあって切ない思い出になっているかもしれない。或いは何かしらのわだかまりがあって転校したのならば、やはりそれは言いにくいことだろう。
「いいよ。気にしないで。オレの責任なんだから」
 フミトは優しい声色で言う。その顔からは哀切の色が失せていた。
 なんとなくその場を去りがたくなって、理子はフミトの隣に腰を下ろした。松葉杖をそばに立てかける。
「それでどうして泣いていたのか訊かないんですか」
「何があったかはキミを見てて大体想像がつくよ。松葉杖をそばに置いて悔しそうに走っている子を観ているキミを見ればね」
 そんなところを見られていたのだと知った途端、少し恥ずかしくなって赤くなった。確かにそんな姿を見ていれば涙のわけなど想像に難くないだろう。
「やっぱり分かりますか?」
 照れ隠しのためわざと強がって訊ねる。しかし、当のフミトはそれを質問とはとらなかったのか、それとも聞こえていなかったのか、黙してただまっすぐ前を見ていた。その視線の先を追うと校庭で片づけを始めた人を眺めているのだと分かった。
 その横顔があまりに硝子細工のように脆く感じて理子は同じように黙って生徒の動きを見つめる彼を見つめた。
 よく観察してみると彼はさほど自分とは変わらない年恰好であった。なんとなく発言の仕方や物腰の中に老成した感じがあったせいで見落としていたが、せいぜい一、二歳年上というところだろう。最初に見たとき燃えるように真っ赤だと思っていたジャージも、ところどころ赤茶けていて真っ赤というのには語弊があった。どうやら色彩の欠けた暗い中で見かけたために強い赤に感じ取ったのだろう。
「キミは今死にたいかい?」
 それまで黙っていたフミトが何の前触れもなく喋りだした。しかしその視線は依然として校庭中央に固定されたままである。
 質問の内容の過激さとそれを伝える声の穏やかさのギャップに驚きながらも理子はとりあえず問いには答えず、
「何もかにも唐突な人なんですね、貴方は」
 ただ一言そう言った。フミトが自嘲気味に笑う。
「どうも昔から突然ポッと思いつきで行動する癖があるんだよ。後の祭りとはいえ、よく後悔したもんだよ。でも、これはそういう類の質問じゃない。本当に知りたいんだ」
 フミトは漸く視線を理子に向けて真顔で問うた。射抜くような鋭い眼光に晒され、圧倒されながらも彼女は考えた。
 今、死にたいかどうか。
 確かに現状はつらい。期待に応えられないかもしれない自分はやはり悔しいことには変わらないし、もし今までどおり当たり前にできていたその行為ができなかったらと仮定するだに恐ろしい。
 だが、もしかしてその考え方はすごく傲慢なのでは、と理子は気付いた。人間誰しも完全ではない。当然失敗だってするものだ。だからこそ、クラスメイトは理子の不注意による怪我を許したのだ。
 今まで理子は期待に沿うような結果を残してきた。だが、だからといって次も成功するとは限らないのだ。成功する確率は上がるかもしれないが、やはりそれでも失敗する可能性が無いとは言い切れない。それにもかかわらず、彼女は成功するのが当たり前、必ず成功すると思い込んでいた。足を挫かなくとも、失敗することはあるのにもかかわらず、それを考えもしなかったのだ。しかも、間に合わないと勝手に決め付けてもいた。それは確かに傲慢な考え方だろう。
 何かに挑戦する人は誰しも失敗する恐怖を抱え、それと戦っている。そういう時周囲の期待が重荷に感じるのもごく普通の体験だ。
 理子の感じていた恐怖はそういう他の誰もが感じるものに過ぎないのだ。ただ失敗の経験が少ないので、大きく感じているだけで。
 だったら、私は――。
「死にたくは、ないですよ」
 搾り出すような声で理子は続けた。
「というか、自ら死を選ぶのはずるいと思います。勿論自殺する人を貶めるつもりも責めるつもりもないですよ。その人にはその人なりの事情があるだろうから。けど、私にとっては自分が自殺するのは驕りだから」
 フミトは理子の答えを聞くと、あからさまにほっとしたような顔つきになった。
「そうか。それならいいよ」
「それってどういう意味ですか?」
 彼が何故自分を許すのか、自分の何を許したのか理解できず聞き返したが、フミトは笑顔で誤魔化した。ほんの少しの間に近づいたと思っていた彼との距離が急に遠ざかったようだ。
「さあ、お喋りはここまで。早く帰らないと暗くなってしまうよ」
 彼に指摘されて初めて校庭から人影がなくなっているのに気がついた。辺りも大分暗くなっている。
「でも」
「オレとはまた会える。だから今は帰ろう」
 フミトは校門を指し示して急かす。やんわりとした口調ではあるが、逆らいがたい強制力があった。
 理子は彼の真意を問い質したかったが、これ以上遅くなると両親が心配することに気付いて仕方なく立ち上がった。松葉杖を手に歩き出す。だが、校庭の途中で振り返り、コンクリートの段差の上に立って自分を見送る彼と視線を絡ませた。
「会うの、約束ですからね」
「ああ。気をつけて」
 フミトはそう言って手を振った。 
 
 
 今日はここまで。それではまた次回。
 
 
 
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