第四話
 
 翌日、珍しく委員会の仕事が早く終わった後、理子は独りで校庭に向かった。いつも連れ立っている友人の恵はどうしても外せない用があると先に帰ってしまっていた。
 靴を履いて松葉杖を頼りに騒がしい校庭を横切る。まだ少し赤みの残る空の下、あちらこちらから掛け声や励ます声が聞えてくる。走っている人や投げられたボールを避けるように端の方を歩いていき、コンクリートでできた段差の部分に腰を落ち着ける。そこから校庭の中央を見渡すとクラスメイトのうちの何人かがバトンパスの練習をしていた。
 練習終了の時間が近づいていながら理子が外に繰り出したのは、今日が選抜リレーの練習日だったからである。遠めに見守っているのは怪我をした自分が顔を出すと余計なプレッシャーを与えかねないと考えた上での判断である。
 遠ざかったり近づいたりを繰り返す仲間の後姿を眺めながら、理子は心中に浮上した悔しさに両手を握り締めた。掌に爪が食い込んだが、悔恨の念はその痛みを遥かに超えていた。

 彼女は昔から他人の期待に臆するようなタイプではなかった。むしろ期待されればされるほど力を発揮できるような性分だった。目立ちたがり屋というわけではないが、他者から期待されると気持ちが高揚して自然と記録が伸びていたのである。それは年長になるにしたがって増えていく、クラブや委員会などの仲間とともに力を合わせてことをなすような場面において彼女の自信になった。
 だが、期待がそのまま自信に直結していたのは、その期待に沿うような結果を常に残し続けていたからである。勿論何も努力しないで素晴らしい結果を残せたわけではない。テスト勉強はきちんとしていたから優秀な成績を残せたし、クラブ活動でも練習に余念がなかったからこそ勝利を勝ち得ていた。それでも、周囲の期待に応えられなかったということは今までになかったのだ。期待されることも、それに応えることも彼女にとって当たり前になっていた。
 だからこそこの期待に応えられない今の自分が情けなかった。
 クラスメイトは怪我をしたのならしかたないと彼女を責めることもせず、優しく慰めてくれたが、そのことが余計に悔しさに拍車をかける。母親の言うように応援するだけではとても晴れるものではなかった。
 そうして悔しさを十二分にかみ締めた後にその裏に隠れていた恐怖が露見するのだ。最早獲得して当然となっていた成功が危うくなることに対する恐れとそのことによって周りに落胆されることへの恐れ。成功し続けていた故に感じたことのなかった未知のそれが彼女を蝕んでいた。追い風が向かい風になるように、初めて、期待が重圧に転じたのだ。
 しかも、初めて味わうこの恐怖にどうすれば打ち勝てるのか分からないのだ。なまじ経験がない分、その恐怖は大きい。
 理子は二つの感情に挟み撃ちにされて、俯き涙を零した。耐え切れず嗚咽を漏らしそうになる口を押さえて声を殺す。

「どうしたの?」
 唐突に頭の上から言葉が降ってきて、彼女は恐る恐る顔を上げた。後ろを振り向くとそこには、見覚えのある赤いジャージを着た男が立っている。
 恵から聞いた怪談話が頭の片隅を掠める。先程まで頭を悩ませていた恐怖が一瞬にしてどこかへ吹き飛び、質の違う恐怖が彼女を支配し始めた。得体の知れない嫌な感じが背筋を這う。

『自殺した子の霊が足の速い子を妬んで――』

「何か嫌なことでもあったのかい」
 静かにそういいながら男は理子の隣に進み出る。
「あ、あの」
 どうすればいいかわからず、逃げることするすら思いつかず、理子はただそこに座っていた。涙がすうっと頬を滑り落ちていく。
 男は許可を請うことなく勝手に理子の隣に座った。

『あっちの世界に連れて行こうとするんだって』

「何かつらいことがあったのなら、オレでよければ話を聞くけど」
 脳内で恵の声がリフレインする。
 男は黙り込んでしまった理子を不思議そうに覗き込む。男の整った顔が近づいてきたとき、漸く彼女は我に返った。
「あ、貴方、誰ですか」
 理子は思わず、そう訊いた。
 
 
 
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