こんにちは、緇月あらため待雪草(まつゆきそう)です。
 このお話は、本来『コトノハNo.3 テーマ「猫」』に載る予定だったのですが……
 『ゆきかぜNO.21(新入生デビュー号)』で、私が書きました「灰空の下 綴られてゆく物語」の外伝として書いてしまいまして(苦笑)。
 シリーズものはコトノハには載せない方が良いのでは? と言う意見から、webで公開させていただくことになりました。
 これを先に読まれまして、本編に興味を持たれた方は、是非『ゆきかぜNO.21(新入生デビュー号)』を手に取ってくださいませv
 前置きが長くなりまして……それでは、拙い文章ですが、お楽しみいただければ幸いに思います。
 
 
 
  My dear friend.
 
 
 
 昔、猫を飼っていた事がある。

 白と黒と茶の色を持つ、ふわふわしたメスの三毛猫。
 街を離れ、翁と二人〈陸の深海〉で暮らし始めたばかりの頃の話。 幼かったあたしにとって、彼女はペットではなく、友と言っても過言ではなかった。
 彼女との出会いは、今にも泣き出しそうな空模様の夕暮れ。 翁に連れられ久方ぶりに訪れた街の、とある路地のゴミ捨て場に――彼女はいた。
 ボロボロの木箱の中に、おざなりに敷かれた新聞紙。その上にちょこんと静かに座っている子猫。 一刻も早く街を去りたい、と早歩きで石畳に靴音を響かせていたあたしが、 不意に立ち止まってその子猫を視界に納める事になったのは……運命だったのかな、と今となってはロマンチックに懐古してしまう。

『ひとりぼっちさんなの?』

 木箱の前にしゃがみこんで話しかけたあたしに、子猫は答える様に、みー、と一つ小さく鳴いた。

『そっか。ちょっとまえのスノーといっしょだね』

 幼いながらも、その子猫に自分と同じものを感じたあたしは、先行く翁に必死に訴えた。

『おうちへかえるのはこの子もいっしょ!』

 鳴きもせず、ただただ木箱の中から外を見つめていた子猫。 自分が置かれたやるせない立場を理解した上で、それを受け入れてしまった悲しい瞳。 その姿に、幼いあたしはかつての自分を重ねたのだ。
 翁はやさしげに口を開いた。

『その子猫は、きっと、ずっと、スノーより早く死んでしまう、いなくなってしまうであろう。 スノーは一つの命を尊び、慈しみ、そして見届ける責任と覚悟を持てるかのう?』
『うん! スノーはだいじょうぶ!』
『……そうかのう。ならば連れて帰るがよいよ』
『うん! おきな、ありがと!』

 でも、そうは言ったものの。その時のあたしは、まだ知らなかった。〈死〉という言葉の本当の意味を。
翁に救われるまでの街での生活も、今思い返してみれば、直接的な〈死〉に触れる事は、辛うじて回避されていた。

 だから、知らなかった。
 理解出来る筈もなかったのだ。


◇ ◇ ◇


「これ、は?」

 明らかに子供が描いたと分かる、雑だがどこか可愛らしさを感じさせるタッチ。 〈かざぐるまの穴ぐら〉の地下に存在するドックの、壁の一角に貼られた何枚もの絵に、 ふと気づいたザーフィアの口からは、無意識に疑問の言葉がついて出ていた。
 考えるまでもなく、幼き頃にスノードロップが描いたものだと分かるそれら。だが、なにゆえ対象物が一種類だけなのか……?

「あ。その絵ですか」

 つぶやきに近かった言葉であったが、どうやらスノードロップの耳には届いたらしい。 スノードロップはスペースシップのエンジンの整備から顔を上げてザーフィアの視線の先のものを確認すると、口元を苦笑の形に歪めた。

「小さい頃に描いた、三毛猫のリンの絵です。笑っちゃうくらいヘタクソな絵なんですけど、剥がすのもなんだかなーと思ってそのまま」
「そうか、お前の飼っている猫の絵なのだな」
「へ? ……ああ。残念ながら過去形なんです」

 ザーフィアの言葉に、スノードロップは視線をエンジンと、それを繋いだ端末へと行き来させつつ言葉を紡いだ。

「リンはあたしが十歳の時に事故で死んでしまったんです。あたしの所為なんですけどね……」

 その声色に混ぜられた、微かな悲しみと悔しさの気配に、ザーフィアはスノードロップに視線を向ける。 その表情は背に阻まれて窺う事が出来ない。

「翁を困らせるほど泣いちゃったなぁ、あの時は。 あたしにとってリンの死は、初めて目の前に突きつけられた永遠のお別れだったんです」

 少し間を空けて、言葉は続く。

「……リンは、友達であり家族で。何をするのもずーっと一緒でした」

 ザーフィアは再び、絵を見つめた。紙に力いっぱい描かれた猫、リン。 そこには溢れるばかりの愛情が確かに込められていた。 幾つかの絵の中には、スノードロップ自身と思しき像も時折描きこまれていて。 それは、リンと過ごした楽しく幸せであった時間を、ザーフィアに確かに伝える。

「何故リンが亡くなってしまったのか……聞いても良いか?」

 静かに尋ねたザーフィアに、スノードロップは小さく首肯した。 端末を操作する手を止め、ザーフィアに背を向けたまま、そのまま床に座り込む。 頬に掛かった銀色の髪を背に払って、深い息が吐かれた。

「嵐の夜の事でした。凄い風で……ずっと森で暮らしていて自然の驚異には慣れている筈のあたしでも、怯えてしまうほどでした。
翁は家の発電の為の何かがトラブったって言って、外に出て行ったんですが……全然帰って来なくて。 多分、今思い返してみれば、そんな長い時間じゃなかったんでしょうね。小さい子供の時間感覚は特殊だから」

ザーフィアはスノードロップの背中を無言で見つめる。

「あたしは怖かった。 翁が帰って来ない事も、吹き付ける強風も、その時の何もかもが怖かった。 そこにじっとしている事が怖くて怖くて、どうしても耐えられなかった。 だから、『決して外には出るな』と言う翁の言いつけを破って、外に出てしまったんです。 レインコートを着て。リンを両腕で抱えて」

 それがあたしにとっての悲劇の始まりですね。スノードロップは小さく笑った。

「発電している場所は家から百メートルくらい離れていて、あたしはそこに向かいました。
 今考えてみれば、外に行く方が家にいるより数倍も怖い事なんですよね。 でも、その時の私は、翁がいない事の方がよっぽど怖かったんです。
 あたしは暗い森を歩きました。暗くても道は分かった。でも、風が凄かった。木々がミシミシ軋んで、葉が勢い良く飛んで行った。 痛いくらいの雨が叩きつけて来る。幼かったあたしには、耐え切れるものじゃなかった。 二、三十メートルなんとか歩いた所で、あたしは……」

 視線が天井に向けられて床に下げられる。また、息が深く吐き出された。

「無意識にリンを手放してしまったんです。びっくりしたリンは反射的に鳴いて、体勢を整え様と身じろぎした。 そして、立ってよろめいて……
 ――そこに、太い木の幹が落ちて来た。
 リンの真上に」

 静寂が辺りを包みこんだ。
 先ほどまで微かな機械音をさせていた端末も、いつの間にかスリープモードに入り、沈黙を保っている。 何も、音がない。その静けさはまるで心臓の鼓動まで聞こえてしまいそうなほどで――

「リンは死にました」

 意図的に静寂は破られた。スノードロップ自身によって。

「あたしが外に出てしまったばっかりに」
「……スノー」

 顔を上げて振り向いたスノードロップは、ザーフィアに悲しげな笑みを向けた。

「リンの死によって、あたしは〈死〉という言葉の本当の意味を知りました。 そうしてそこで初めて……リンを連れて帰る時に、翁があたしに尋ねた理由が理解出来たんです。 『一つの命を尊び、慈しみ、そして見届ける責任と覚悟を持てるか』という言葉を」

 人間と比べて猫の命は短い。当然スノードロップよりも、子猫は先に逝ってしまう。
 翁は知っていたのだ。そして、それでスノードロップが悲しみ嘆くであろう事も分かっていた。
 幼い養い子が、己が言葉に込めた思いを理解出来ないであろう事も承知していたであろうが……

「いくら呼びかけても、動かない。動いてくれない。あたしは経験を持って知る事となりました。 〈死〉は唐突で、あっけなくて。そして残された者の胸に、ぽっかりとした穴を作るのだという事を」

 スノードロップは、リンの絵を見た。そしてザーフィアへと視線を動かす。濃紺の瞳と空色の瞳が交差して……何秒か。 先に逸らしたのはスノードロップだった。

「すみません、くだらない事を語ってしまって」
「いや……くだらなくなどないさ」

 ザーフィアは静かに首を横に振った。

「当たり前の事かもしれない。ありきたりの考えかもしれない。だが、だからこそ――決して目を背けてはいけない事だ」
「そう、ですね」

 ふっ、と一瞬。悲しげに目を伏せて……スノードロップは言った。

「近いけど遠いもの。この世界に生きている限り、ずっとどこかに潜んでいるもの。 普段は気付かない。気付けない事かもしれないけど……だからと言って、あたし達は目を逸らしちゃいけない」
「……そうだな。商人でも、農業従事者でも。政治家でも……軍人でも」

 ザーフィアは“ここ”ではない“どこか”を見つめて呟いた。


「『一つの命を尊び、慈しみ、そして見届ける責任と覚悟を持つ』 ……それが出来る人間は、この世界にどのくらいいるのだろうな」


 その微かな呟きは虚空に溶けて、消えた。


◇ ◇ ◇


 昔、猫を飼っていた事がある。 

 白と黒と茶の色を持つ、ふわふわしたメスの三毛猫。名前はリン。
 彼女は、まだまだ幼かったあたしの友達であり、家族であり……そう、かけがえのない存在であった。 あの頃のあたしは、何をするのもリンと一緒で。笑う時も、泣く時も、たとえ翁に怒られる時であっても、いつも傍にはリンがいた。 ほんとに仲良しで、ほんとに大好きだった。
 でも、あたしの所為で死んでしまって。
 あたしは涙が枯れるほど泣いて、泣いて、泣いて。そして、知ったのだ。
リンがもう、あたしの後ろを付いて来れない事。一緒に木登りが出来ない事。走り回れない事。鳴けない事。……もう、動けない事。
初めて目の当たりにした、近しい存在の死。
 これでもかと言うくらい、切なく、どうしようもなくやるせない気持ちが襲ってきて。

「ごめんね、あたしの所為で。ごめんね」

 リンはあたしの事を恨んでいるのだろうか。恨まれて当然の事をあたしはしてしまったけれども。

「好きだったよ、リン。大好きだった」

 もし、死後の世界があるのならば。どうかあたしの事を待っていて欲しいと願うのは傲慢な考えかな。
 目の前いっぱいに広がる花畑の前に、おとうさんとおかあさんがいて。翁がいて。そして……
 駆け寄ってあたしは彼女を抱きしめるのだ。

――Hello! My dear friend !
 
 
 
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