丸印
 
 あんなに楽しみにしていたのに。手帳だけでなく部屋のカレンダーにも書き込んでおいたというのに。それなのに。

 あぁ、何ということでしょう! 私はこんな大事な日に……寝坊をしてしまったのです。どうやら目覚まし時計の電池が、寝ている間に切れていたようなのです。なんという偶然。そして、なんという不運。よりによってこの日に。あぁ、しかし。悪いのはこの程度の事態すら予測せずに、仮眠をとろうとした私なのでしょう。大事な約束があるというのに、何と迂闊なのでしょう。

 あの方は迂闊な私を許してくださるでしょうか。私が時間通り来ないことに腹をたて、帰られてしまったかもしれません。いいえ、きっとあの方のことですから、そのようなことはなさらないかもしれません。けど気分を害されてしまったことは確実です。私は急いで外出の準備をし、あの方との待ち合わせ場所へと向かいました。

 あの方は私が働く喫茶店の常連でした。昼ごろにいらして、ブラックのコーヒーを一杯注文なさるのです。そしてそれをゆっくりと飲みながら時間をお過ごしなさるのです。「優雅」という字がぴったり似合うお方でした。

 あの方は客。私は従業員。毎日のように顔をあわせるというのに私たちは他人でした。

 しかし……先日、突然お食事に誘われたのです。私は吃驚したものの、承諾しました。

「ごめんなさい」
 遅れてきた私を見ても、あの方は優しい顔をしています。
「謝ることはないですよ。あなたはちっとも悪いことをしていない」
「でも私、約束の時間に遅れてしまいました」
「そんなのは私にとって謝られるに値しない些細なことですよ。あなたが来てくれたことだけで私は嬉しい。感激の至りです」
「そんな…」
「予約した時間が迫っていますので、向かいながら話をしましょうか」

 話してみるとあの方は、優雅なだけでなく、とても愉快な方でした。私たちは美味しくお食事し、楽しくお喋りしました。とても幸せな時間でした。「あっという間」という言葉を、身を持って体験しました。店の前でまた会う約束をして、私たちは別れました。

 私は幸福な気持ちで家に帰ったあと、机上のカレンダーの今日の日付にピンク色の丸印をつけました。これからあの方と二人きりでお会いするたび、私はカレンダーに丸印をつけていこうと思います。

 今日は初めての丸印です。まだ丸印は一つです。最初は一週間に一度のペースかもしれません。けどだんだんと、私のカレンダーの上に丸印は増えていくでしょう。一年が終わる頃、私のカレンダーは丸印でいっぱいになっていることでしょう。それを見て一年を振り返り、幸福な気持ちになることでしょう。
 
 
 
 大学の授業で『「カレンダー」をテーマに原稿用紙3枚以内で小説を書く』という課題が出たときに書いた作品です。
 「原稿用紙3枚以内」という文字数制限が辛かったのを覚えています。
 加筆・修正はせず、授業で提出したものをそのまま載せてみました。
 今、読み返してみると、我ながら恥ずかしい作品ですね。
 
 
 
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