長いこと続けてきた「赤いジャージ」ですが、いよいよ今回で完結です。
 ではご覧ください。
 
 
 第八話
 
 理子は校庭を出てからもただ闇雲に走っていたが、後ろから迫ってくる人影が消えていることに気付いて足を止めた。ちらりと背後を盗み見るが、やはりフミトの姿はない。
「逃げ、切れたかな?」
 どうやらここは住宅が密集する路地らしく、アパートと児童公園に挟まれたこの場所は閑散としていた。気になって周囲を見回してみる。夜の始まった薄暗い通りではそれほど遠くまで見通すことは出来なかったが、それでも足音や気配が存在しないことから本当に近くに彼がいないようだ。
 追っ手の不在に安堵して道端の塀に手をついて乱れた息を整える。呼吸が楽になるにつれて落ち着きを取り戻した理子は急に左足に鋭い痛みを感じて蹲った。どうやら捻挫した足が走ったことによって再び疼きだしたようだ。
 その激痛に逃げ果せた安堵感は切り裂かれ、強い後悔が津波のごとく押し寄せた。恐怖に混乱し焦ってとんでもないことをしでかしたのだ。残っている教師に助けを求めるとか、携帯電話で警察を呼ぶ等、自分の身を守るもっと簡単な方法があったのにもかかわらずそれを選ばなかったことが今更ながら悔やまれる。
 また、同じ逃げるにしても交番や人家に駆け込めば、例え足が痛んだとしても安心していられたのだが、こんな人気のない道の真ん中では万が一のときを考えると不安になってしまう。
 なんで、こんなところに逃げてきちゃったんだろう。
 心の中で愚痴を零すが、そんなことで状況が好転するはずもない。さしあたって警察を呼んでおこうと考えた理子は痛む左を庇いながら隣のアパートの敷地に入り一番近かった一階のドアを叩く。しかし、留守にしているようで応答はなかった。同じように一階の全ての部屋を回っても、部屋から人が出てくる様子はなかった。
 それでも諦めきれず建物の反対側に回ってみたが、壁面に整然と並ぶ八つの窓に明かりが灯っているものはなかった。
 今すぐに安全な場所に避難するのは不可能なことを知って理子は少し動揺したが、気を取り直して今度は警察に連絡することにした。携帯電話をポケットから取り出して110番をプッシュする。最後に発信しようとしたとき、静寂を破るように足音が聞えてきた。
 まさか、フミトさん?
 心中にじわりと滲んできた恐ろしさを抑え込むように、手の中の携帯を握り締める。足音は正確に理子の方へと向かって徐々に大きくなる。
 黄昏の闇の中に、突如赤い男が現れた。
「え?」
 その姿に理子は驚愕した。
 目の前に現れた男は確かに赤い服を着ていたが、それはジャージはなくパーカーだった。フードを目が隠れるくらい深く被り、視線を下に落としているので顔はよく判らないが、身長は明らかにフミトより頭一つ小さい。
 目を丸くして立ちすくんでいる理子の前で男は顔をゆっくりと上げた。フードの端から覗いた両眼が異様にぎらついていた。男が歪な笑みを浮かべる。
 その男の手に白刃が握られているのを見て、理子は凍りついた。走り出そうとしても左足が痛くて少しずつ後ろに下がるのが精一杯だ。
 男はそんな彼女の姿を楽しんでいるのか、さらに笑みを深めてにじり寄ってくる。ナイフの握られた手が狙いを定めて振り上げられる。
 死んじゃう!
 理子は咄嗟に頭を腕で庇って目を瞑った。
 だが、次の瞬間、何かが殴られたような鈍い音が辺りに響き、次いで物が倒れる音と金属がぶつかるような音がした。
 何が起こったのか理解できずそっと目を開くと、そこには大地に倒れ伏した通り魔がいた。誰かが自分を助けてくれたのだ。
「誰が?」
 思わず口に出して問いかけたとき、後ろに気配を感じて理子は振り返った。
「大丈夫かい?」
 振り向いた先にはフミトが立っていた。変わらず赤いジャージを着て、浅い所にあったときのように優しい笑みを浮かべている。ただ、その体は半透明で、向こう側にある本来見えないはずのものを体を通してみることが出来た。
「幽、霊?」
 その二文字が即座に脳裏を過ぎった。一度は疑っていたことではあるが、まさか本当にフミトが幽霊であるとは考えてもみなかったため、驚きは倍増していた。
「あれ、気付いてなかったのか? てっきりオレはそれに気付いたから逃げ出したんだと思ってたけど」
「私は貴方が通り魔だとばっかり……」
「通り魔? オレが?」
 フミトは不思議そうに首を傾げる。そこで漸く理子は先ほど二人の間に繰り広げられた会話が全く噛み合っていなかったことに気がついた。
 件の七不思議では自殺した子の幽霊が足の速い子を妬んであの世に連れていく――つまり、早い話、殺してしまうと言われていた。フミトは理子の「殺さないで」という発言をこの話を信じたが故のものだと勘違いしたのだ。
 そして、理子自身はフミトの外見から通り魔だと勘違いしたのだ。恐らくあのジャージの赤茶けたところはやはり血なのだろうが、それは返り血ではなく自決のときに流した血で、幽霊に臭いがあるかどうかは知らないが、それが臭っていたのだろう。
 あらぬ嫌疑をかけてしまったことに申し訳ない気持ちが心中どころか体中に広がっていった。慙愧の念が一気に膨れて顔が真っ赤になった。
 だが、通り魔と名指しされた当の本人は苦い笑みを浮かべて、
「まあ、さっきの奴とは違うけど、オレもある意味通り魔かもな」
 と吐き出すように言った。
 その言葉の意味が分らず、理子は瞳で問うた。すると、フミトはまた自嘲気味に笑った。
「いや、あの怪談話は脚色しすぎだけど、オレが足の速い子を妬んで軽い悪戯をしてたのは本当だからな。ただ、キミには悪いと思っているよ。まさか、あんな大怪我になるとは予想してなかったから」
「それは、まさか……」
 フミトの示していることが、自分が階段から落ちて足首を捻挫したことだったのかという確認の質問は口内で弾けて消えてしまった。まさか自分の心の痛みを癒した彼がその原因を生み出した張本人だとは、信じ難いことだった。
「オレも子供なんだ。悪いのは自分なのに未だに成長できなかったんだ。だから悪戯で憂さ晴らしをし続けていた。大抵その後すごい後悔するんだけど、また気付くとちょっかい出しててね」
 とうとうとフミトは続ける。
「でも、キミが大怪我して泣いているのを見たら、今までの比じゃないほど後悔した。なにせオレと同じ状況に陥らせてしまったから。だからどうしてもキミの心に報いたかったんだ」
「フミトさん……」
 何故だか、理子の心の中では怒りというものが湧き上がっては来なかった。そういう激情が炸裂してもおかしくない状況であるのにそうでないのは、きっとこの怪我をしたことで得られたものが大きかったからであろう。そう、順調に体育祭を迎えていては気付かなかった大切なことが真に理解できたのだ。
「ありがとう」
 それらの思いを口には出さずただ心からお礼を述べると、フミトはくすりと笑んだ。これも最初に会ったときに見せた、からかっているような笑い方だ。
「やっぱりキミは面白い子だ。でも、お礼を言われるべきなのはオレじゃない。キミだ」
 指差された理子は自らも自分を指し示して訊き返す。
「私?」
「そう、キミはオレの心を呪縛から解き放ってくれた。オレは自殺した自分を悔いているのだと、自殺しないで生きてみたかったのだと、気付かせてくれた。お蔭でオレは前に進める」
 言葉が増えるに従って、フミトの体は目に見えて薄くなっていった。存在感が希薄になり、足元から霧散していく。
「フミトさん、体!」
「いいんだ。これが本来あるべき状態だから」
 悲愴な声で訴えると、フミトは柔らかに顔を綻ばせた。
 消滅のラインは胸のところまで迫ってきた。最早、プラスチック製の胸像のような感じになった彼は突然ウインクした。
「体育祭のリレー頑張れよ」
 最後にただ一言そう言い残すと、フミトの体はこの世から完全に消え去っていった。




 雲一つない快晴の下、体育祭は熱気の渦に包まれていた。
 群衆のうねるような掛け声が轟く。応援席に腰を落ち着けていられいないクラスメート等が前の方に飛び出して全身で応援しているのを微笑ましく感じながら理子もまた、座ったままではあるが声を嗄らして応援をしていた。現在の種目は男子のみ参加が許されている騎馬戦である。
「ねえ、理子そろそろリレーの集合時間だよ」
 隣で同じように座って応援していた恵が指摘する。校舎につけられている時計は確かにあと数分で集合がかけられる時刻を指していた。
「じゃあ、行ってくるね」
 羽織っていた上着を脱いで立ち上がると、応援に熱中していた他のクラスメートが気付いて声をかけてきた。
「頑張ってね」
 その声に呼び覚まされたように一人また一人と理子に声をかけてくる。
「理子だったら大丈夫」
「クラスの代表だから」
「気負わないで頑張って」
 それぞれの言葉を忘れぬように確りと心に焼き付けると、理子は恵に急かされて遅れないように入場門の方へと走り出した。
 応援席から入場門まで行く途中、不意に理子は立ち止まり保護者や見物に来た学校近所の人達で埋もれた反対側の客席を見た。そこの観衆の中にあの優しい笑顔があった気がしたのだ。
 貴方の分まで、頑張ります。
 理子は心の中でそう告げると、入場門に向かって再び走り出した。  
 
(おわり)
 
 
 以上を持ちまして長々と続けてきたお題小説「赤いジャージ」完結です。ここまでお付き合いいただいた方ありがとうございました。拙い文章ですが、楽しんでいただけたら幸いです。そのうち気が向いたらですが、ネタバレというか、実はこういう展開も考えていましたという話をするかもしれません。

 それではまた機会があれば。
 
 
 
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